大判例

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最高裁判所第二小法廷 平成元年(オ)456号 判決 1991年11月08日

上告人(被告)

奥山和也

ほか一名

被上告人(原告)

森實

ほか一名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人藤田良昭、同田淵浩介、同野村正義、同懸郁太郎の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。右判断は、所論引用の判例と抵触するものではない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原判決を正解しないでこれを論難するものにすぎず、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 大西勝也 藤島昭 木崎良平)

上告代理人藤田良昭、同田淵浩介、同野村正義、同懸郁太郎の上告理由

原判決は最高裁判所の判例と相反する判断をし、また経験則に違背して事実を誤認した点において法令の違背があり、これが判例に影響を及ぼしたことは明らかである。

一 原判決における逸失利益算定の問題点

原判決による逸失利益算定には、次の点に問題がある。

第一点 原判決は、被害者の逸失利益算定の基礎となる年収額の算定に当たり、事故前の現実収入額を採らず、賃金センサスの数値を用いたこと。

第二点 その賃金センサス使用の理由の一として将来の昇給を斟酌しているが、その場合、何らの具体的算定方法をも示すことなく、相当程度の蓋然性をもつて昇給が予測されることの証拠に基づいた認定も欠いていること。

第三点 推定年収額として定年五七歳までの三〇年間につき全年齢平均給与額を採用しながら、しかも三〇年(就労可能年限までは四〇年)という長期にもかかわらず、中間利息控除方法としてホフマン方式を採用したこと。

第四点 定年後より六七歳までの一〇年間については、定年までの推定年収額をはるかに上回る同センサス六〇歳ないし六四歳の平均給与額を使用したこと。

これらは、次に示す最高裁判所判例に違背し、かつ以下に述べる経験則にも著しく違背するものである。

二 最高裁判所判例

最判昭和三九年六月二四日民集一八巻五号八七四頁は、幼児の逸失利益算定に際して、「裁判所は被害者側が提出するあらゆる証拠資料に基づき、経験則とその良識を十分に活用して、できうるかぎり蓋然性のある額を算定するよう努め、ことに右蓋然性に疑がもたれるときは、被害者側にとって控え目な算定方法(たとえば、収入額につき疑いがあるときはその額を少な目に、支出額につき疑いがあるときはその額を多めに計算し、また遠い将来の収支の額に懸念があるときは算出の基礎たる期間を短縮する等の方法)を採用する」としている。

そして最判昭和四三年八月二七日民集二二巻八号一七〇四頁は、給与所得者の逸失利益算定に際し、「裁判所はあらゆる証拠資料を総合し、経験則を活用して、でき得るかぎり蓋然性のある額を算出するよう努めるべきであり、蓋然性に疑いがある場合には、被害者側にとつて控え目な算定方法を採用すべきである。…死亡当時安定した収入を得ていた被害者において、生存していたならば将来昇給等による収入の増加を得たであろうことが、証拠に基づいて相当の確かさをもつて推定できる場合には、右昇給等の回数、金額等を予測し得る範囲で控え目に見積もつて、これを基礎として将来の得べかりし収入額を算出することも許される」とする。

右判例はいずれもいわゆる控え目算定主義を宣言し、かつ昇給等による収入増加は証拠に基づく相当程度の蓋然性ある場合にこれを算定基礎とすることを許容しようとするものである。

三 賠償理論・実務の一般的傾向

本件は一般給与所得者の逸失利益に関するものであるが、これに関する学説や賠償実務は、いずれも右の最判理論を踏まえ、控え目な算定方法、また昇給に関しても具体的蓋然性を要求する基本的立場に立つている。

(1) 算定基礎とすべき収入額

すなわち、前記第一点の算定基礎となる収入は、原告として事故前の現実収入額によるべきであるとしている(交通判例研究会編・判例交通事故損害賠償法三一四七頁、吉岡他編・判例民事交通訴訟法三一九頁、鈴木他編・注解交通損害賠償法四四八頁、吉本「サラリーマンの逸失利益」裁判実務大系8一九五頁、塩崎「人身損害の損害算定上の問題点」ジユリ増刊総合特集No.四二・九三頁、副田「逸失利益(9)」別冊ジユリNo.九四・一〇四頁、日弁連交通事故相談センター・交通事故損害賠償額算定基準など)。

そして、給与所得者でありながらいわゆる賃金センサス(労働大臣官房統計情報部・賃金構造基本統計調査報告)の平均賃金(学歴計又は学歴別平均、全年齢又は年齢別平均)を基礎とするのは―

(一) 収入額の確定が証拠上困難な場合、収入が平均賃金以下の場合、収入が一時的に高額で平均賃金を上回る場合、といつた特段の事情のあるとき(鈴木他編・前掲四四八頁、吉本・前掲一九六頁)

(二) 現実支給額がその者の労働能力を正当に反映していない場合、転職の可能性が濃厚である場合、就職内定者や臨時工の場合など(交通判例研究会編・前掲三二〇六ノ二)

(三) 現実支給額は賃金センサスの平均額を下回るが、将来センサス平均程度の収入を得られる蓋然性が認められる場合(日弁連交通事故相談センター・前掲基準。第一一訂版では一六頁)

等々のケースと考えられている。

そしてこれらが「平均賃金以下の収入」という場合は、若年とか就労後日が浅いとか、あるいは臨時的業務その他の理由により、社会的にも低給与とみられる場合を想定していることは、そこに例示的に掲記された判決例などをみても明らかである。

本件原判決のように、死亡当時年収三三八万円余の安定した収入を得ていたにもかかわらず、これを捨てて賃金センサス採用に走る考え方は、どこにも見出すことが出来ない。

(2) 推定収入額算定における昇給斟酌

次に前記第二点の将来の昇給見込斟酌の問題である。昇給を加味した収入額を基礎とすることの可否について、古くは否定的見解もないではなかつた(篠原・注釈民法(11)五四頁等)が、今日は実質賃金に関する狭義の昇給については積極説が大勢を占める。

その場合、公務員、公共企業体等職員、大企業従業員など現実に昇給規定、昇給慣行があり、かつこれに従つて昇給が施行されている場合は、被害者についても昇給が行なわれる蓋然性が高いため、これを考慮して算定されるべきであるとすることに異論はない。

問題は昇給規定がない場合であるが、前掲最判昭四三は被害者の死亡前月の給与額を基準とし、死亡後四年間は同程度の学歴・能力を有する同僚の実際の昇給率により、またそれ以後は右四年間の平均値で将来の昇給額を推認する算定方法を是認した。同判決は、かかる昇給は相当程度の蓋然性があり、このような平均値的な昇給率によつて予測された昇給を斟酌して将来の収入を定めることは、なお控え目な算定方法にとどまるものとしている。

一般にもこの最判が支持され、昇給が証拠に基づき客観的に相当程度の蓋然性をもつて予測される場合には昇給斟酌が許される、とする見解が支配的である(交通判例研究会編・前掲三一五五頁、徳本「給与所得者の逸失利益」実務法律大系4三五五頁、楠本「逸失利益の算定」実務民事訴訟講座3一六六頁、吉本・前掲一九八頁、塩崎・前掲九三頁、日弁連交通事故相談センター・前掲第一一訂版一六頁など)。

本件原判決は、「勤務先の昇給自体は確実であり、その給与水準が民間企業全体の水準より高い」という唯それだけの理由で、現実年収額を約二〇〇万円も上回る賃金センサスの数値を採用しているが、「昇給の回数、金額等を予測」することもなく、「将来の昇給額を推認する算定方法」も示すことなく、「客観的に相当程度の蓋然性」を窺わせる証拠も欠いており、右最判や学説の立場と隔絶、これらを無視した見解であること明らかである。

(3) 全年齢平均給与額使用と中間利息控除方法

原判決は、五七歳までの三〇年間について昭和六二年度賃金センサス男子労働者、旧大・新大卒、企業規模計の全年齢平均給与を採用しながら、中間利息控除方法としてはホフマン方式を使用した。

東京地裁民事交通部は、一八歳未満ないしその前後の被害者についての逸失利益算定につき、早くから賃金センサスの学歴計・全年齢平均給与を採用し、同地判昭和四六年五月六日判タ二六六・二〇四以降は、現価算出の計算方法として一貫してライプニツツ方式を使用して来た。福岡・札幌地裁その他多数の裁判所もまた今日同様である(平均賃金固定説。いわゆる東京地裁方式)。

これに対して大阪・名古屋地裁その他がホフマン方式によるのは、一八歳~一九歳あるいは二〇~二四歳の学歴計平均給与額を基礎とするからにほかならない(初任給固定説。いわゆる大阪地裁方式)。(最近のものとして日弁連交通事故相談センター・前掲第一一訂版二三頁、東京三弁護士会交通事故処理委員会編・損害賠償額算定基準昭和六三年版一六頁など)

元来が全年齢平均給与の方が高額であつたところへ、特に最近はこれがはね上がつているため、前者の方式が係数の低いライプニツツ方式を採りつつ後者の認定額を大きく上回つて差が開き過ぎ、公平を失するとの指摘も出ている(倉田編・五大地裁庁裁判官による座談会「交通事故賠償の算定基準について」五〇頁以下)。

したがつて、もし全年齢平均給与額を基礎にホフマン方式をかけ合わせたとすれば、現在の賠償水準をはるかに超える結果となる。

最判昭和五三年一〇月二〇日民集三二巻七号一五〇〇頁、同昭和五六年一〇月八日判時一〇二三号四七頁、同昭和六一年一一月四日判時一二一六号七四頁、同昭和六二年一月一九日判タ六二九号九五頁は、いずれも幼児につき賃金センサス全年齢平均給与を基礎とした上でのライプニツツ方式適用を肯認したものであり、他方同昭和五四年六月二六日判タ三九一号七一頁はセンサスの一八歳~一九歳平均給与額を基準とすることを不合理でないとして是認したが、それはホフマン方式によつた事案であつた。これら最判が、いずれも「不合理とはいえない」として、現価算定に関する両方式をそれぞれ支持する立場をとつているのは、基礎とされた推定収入額との関係で逸失利益がその当時の賠償水準並みの控え目な金額に導かれているからであろう。

本件原判決のとつた方式は、後記下級審裁判例をみるまでもなく訴訟実務上極めて異常な例であつて、控え目な算定どころか、ことさらに高額逸失利益を算出するための技法を求めたものと評されても仕方がない。

(4) 定年後の推定年収額

冒記第四点の定年後の稼働可能性については、被害者の経歴、年齢、職業、健康状態その他の具体的事情を考慮して、自由な心証により算定さるべき事柄である(最判昭和三六年一月二四日民集一五巻一号三五頁)が、現在六七歳を終期としてこれを肯定する取扱いが実務上定着している。

その場合、嘱託その他での再雇用、あるいは他への再就職などにおいて定年時の収入より減少するであろうことは、社会の常識である。前掲最判昭四三も「定年時に得ていた収入の半額が得られる」とした原審判断を肯認した。

これに関する裁判基準としては、かつて名古屋地裁が就労時収入の七〇パーセント程度認めるとしたことがあり、(ジユリ増刊総合特集No.八・三五九頁)、現在大阪地裁民事交通部は「少なくとも定年退職直前の収入の五割程度を基礎とする」としている(大阪弁護士会・交通事故損害賠償額算定のしおり六訂版六頁)。

日弁連交通事故相談センター・前掲第一一訂版二二頁は、「六〇~七〇パーセントとしたり、対応年齢の平均賃金額により算定する例が多い」とし、五〇、六〇、七〇パーセントとした各判決例と、賃金センサスの学歴計・対応年齢の平均給与額によつた判決例を掲げている。

ところで「学歴計」の賃金センサス平均給与額の場合、全年齢平均と六〇歳~六四歳平均を比較すれば、後者の金額の方が少ない。例えば原判決が用いた昭和六二年度賃金センサス(甲第一六号証の一ないし三)でこれをみると、約二割減である。

全年齢平均 286,100×12+992,60=4,425,800

六〇~六四歳 240,300×12+631,700=3,515,300

しかるに「学歴別」の場合は、旧大・新大卒にあつては逆に高額で(高専・短大卒も同じ)、約二割高となる。

全年齢平均 329,600×12+1,409,000=5,364,200……(イ)

六〇~六四歳 409,100×12+1,420,900=6,330,100……(ロ)

それは、いわゆるホワイトカラー高齢者の再就職等が困難で絶対数が少ないことが統計数値に影響したものと思われるが、現今社会において、定年退職者の給与が定年時より増加するという事例は、極めて稀な例外に属する。

したがつてその増額が予測される特段の事情が証拠上認定されないかぎり、定年後の収入は定年時の推定収入額よりダウンする蓋全性が極めて高いというべきである。

この点原判決は、何らの証拠に基づくことなく学歴別の賃金センサス六〇歳~六四歳の数値(上記(ロ))を採用、定年前の給与(上記(イ))を実に一〇〇万円も上回る非常識な収入額を認定しているが、本件被害者が定年後、他の一般人とは異なつて従前より高額の収入が得られるという可能性など、証拠上からもとうてい窺うことは出来ない。

四 下級審裁判例の動向

以上の諸問題につき最近の下級審裁判例がどのように取扱つているかをみるべく、交通民集第一二巻~第一九巻所収判決(昭和六一年までの九年間)を整理した(別表)が、逸失利益に関する冒記最判の判旨に則つて具体的事案に対応する幾つかの定型的な認定方法が、ほとんど見事なまでに定着している。

(1) 基礎収入額

まず第一の基礎となるべき収入額の認定については、被害者が事故前現実に収入を得ている場合は、原則としてこれを採用している(【B】表)。

そして現実給与額を採用せず賃金センサス記載の数値を用いたのは、前述の学説・賠償基準等が指摘する通り、若年その他の理由により未だ現実支給額がその者の労働能力を正当に反映していない場合、収入額確定が証拠上困難な場合などに限定され、【A】表掲記の一〇例に尽きる。No.二の四一才女性(勤務時間定まらず家事兼務で低給与)以外はすべて二〇歳前後で、しかも大半入社間もなく低収入のケースばかりである。(なお定年後の収入額推定に賃金センサスを用いることがあるのは別論で、【B】No.六、一四がそれである。)

下級審裁判所の基本的立場は、例えば「逸失利益の算定は定職者については事故時における現実収入額をもつて基準とすべきである」(【B】No.二六山形地判)、「賃金センサスに基づいて逸失利益を算定するのは、原則として事故当時の実収入額の立証が不可能な場合に限られ、現実収入額につき争いのない場合までを含むものではない」(【B】No.一〇大阪地判)、そしてただ「就労して間もない若年労働者については、逸失利益算定の基礎となる収入を事故当時の現実収入額に固定することは合理的ではない」(【A】No.七東京地判)とした判示に集約されている。

本件のごとく二七歳、年収三三八万円余もある事案での賃金センサス使用例は、皆無である。

(2) 昇給斟酌

昇給規定に基づき将来の昇給見込を織込んだ判決のうち、【B】No.二一、二三、三六の三件は、川崎製鉄、松下電器産業、本田技研工業という超一流企業で、昇給制度が確立しているケースである。

あとは中小企業の【B】No.一五(有限会社時津資材)、No.三〇(中堅織物業の丸織)の二件のみであるが、前者は昇給規定と賃金センサス平均給与上昇率とを対比した上、控え目に見積つて一般労働者の平均に従い年額五万六千円余を、後者は所属組合作成のモデル賃金表により昇給の蓋然性を確認した上で、同表は一つの参考にすぎないとし、控え目にみて同表金額をはるか下回る年額五万円を、それぞれ段階的に毎年順次昇給するものとしている。前者の事故時の月収は一六万円余にすぎず、定年直前五四歳時でようやく約二六万円になる計算であり、後者は事故時の月収一五万円が昇給停止になる五〇歳時で同じく約二六万円に達する計算であるから、いずれも予測し得る範囲の控え目な昇給斟酌というべく、証拠に基づき相当の確かさをもつて推定できた点において、冒記最判昭四三の判旨に沿つた妥当な認定ということができよう。

これに対し証拠に基づいた将来予測に立つて、昇給に関する相当の蓋然性を肯定せず原告主張を排斥したのは、【B】No.九、一〇、一一、二四、三七の計五件であり、本件第一審判決もまた同様であつた。

原判決は、勤務先が優良企業で給与水準も民間企業全体より高く、昇給自体は確実というだけの理由で(しかしその程度の企業は、別表記載判決事案の中にも幾らでもある)、事故を境に一気に二〇〇万円余も昇給されたとするに等しい認定をしているが、このような乱暴極まる判決は、別表記載裁判例の中には、一つとしてない。

(3) 全年齢平均給与額とホフマン方式

別表裁判例のうち、基礎収入として賃金センサスの全年齢平均給与額を使用したのは、【A】No.一、三、五ないし九の若年者事案七件であり、その場合、中間利息控除方法はすべてライプニツツ方式である(いわゆる東京地裁方式)。

最近少なくとも死亡事案において、右の基礎数額を用いつつホフマン方式を採用した事例は寡聞にして知らない(もしあるとすれば、就労可能年数が短い場合ではないか)。

原判決が極めて特異な例であることは確かである。

その結果、逸失利益だけで五、九七九万円に達し、【B】No.二三大阪地判の松下電器産業従業員に次ぐ高額認定となつたが、蓋全性などの点で此彼の間に天地ほどの差がある。

(4) 定年後の収入

定年退職後、「高齢で他に再就職して働くときの所得は、退職時のそれに比べて、かなりの程度低下するのが通常である」(【B】No.二三大阪地判)。

そのため昇給を斟酌して逸失利益を算定した前記判決は、定年後は減額又は据置いており、減額割合は【B】No.二一岡山地倉敷支判(川崎製鉄)、No.二三大阪地判(松下電器産業)が退職時の五割、No.三六同地判(本田技研工業)が逓減方式で七割・六割・五割とし、またNo.一五長崎地判(時津資材)は事故時の給与に戻したほか、No.三〇京都地判(丸織)は五〇歳時の給与に据置いた。

昇給斟酌しない判決で定年後収入を従前と区別したのは、No.一四東京地判がセンサス学歴計六〇歳平均を採つて約九割、No.三七名古屋地判が五割、そしてNo.六横浜地判(五二歳で定年まで残り三年)はセンサス学歴計を使つて五六~五九歳が六パーセント増、六〇~六七歳が二〇パーセント減となつている。

その他の判決は昇給を加味しない代わりに、現実収入額で就労可能期間一杯までみており、本件第一審判決も同様であつた。

しかるに本件原判決は、既に述べたように実に約一〇〇万円増額させ、二割弱増とした。他の下級審裁判所ではとうてい考えられない無謀な話である。

四 判例・経験則違反

(1) 第一に、本件被害者の事故前の現実年収額は、証拠に基づき三三八万二、三九一円であり、二七歳対応の平均賃金と大差なく(甲第一六号証の一ないし三参照)、転職の可能性も訴訟資料には表われていない。

それにもかかわらず、本人とは無縁の社会的平均値(高額所得者もおれば、低収入者もいる)でしかない統計上の金額を持出してこれに依拠すべき特段の事情などは、証拠上も存在しない。

したがつて、逸失利益に関し可能なかぎり蓋然性のある額を算出するよう努めるとすれば、当然右の現実収入額が基礎にならねばならない。

しかるに原判決が賃金センサスの数値を用いたことは、冒記最判昭三九、同四三の判旨に背馳する。

(2) 第二に、原判決は昇給自体は確実などといつた理由の下に、現実年収額を約二〇〇万円も上回る五三六万四、二〇〇円を得べかりしであつたと推認した。

しかしながら―

(一) 被害者が事故の一年後から約二〇〇万円も一挙に昇給する可能性など認め得る証拠もなければ、経験法則上もあり得ない。

昇給は、年を追つて順次段階的に増額されるものである。

(二) しかも右の金額を将来三〇年間にわたつて取得し続ける蓋然性についても同様である。民間放送の多局化と競争の激化、衛星放送への民放の参入などをめぐつて業界再編の動きが次第に強まつて来ている今日、勤務先放送局の優良企業性や高水準給与の長期的維持の可能性についても、社会常識的にははなはだ疑問がある。

(三) 将来三〇年間の昇給等をトータル的に考えれば、全期間を通じ全年齢平均給与額を単一的に使用しても、総額的にはさほど不合理ではあるまいという議論もあり得ようか。だがそれは、数額的裏付けのない憶測以外の何物でもなく、蓋然性ある額を求めるべき算出努力を放棄したものである。

原判決が、このように蓋然性につき疑いのある額を採用したことは、前記最判並びに経験則に背反する。

(3) 第三に、原判決は賃金センサスの大学卒・全年齢平均給与額とホフマン方式を併せ使用した。

(一) それは現在一般に用いられている前述の各算定方式と異なり、これよりもはるかに高額な金額を引出す手法であるが、本件において格別に高額認定を必要とする特段の事情は、原審確定の事実からも窺うことは出来ない。

(二) かえつて本件はいわゆる逆相続事案であり、被上告人森實(昭和七年一月一日生れ)と同森恵美子(昭和一二年七月二四日生れ)は、自己の余命年数を越える子の就労期間の逸失利益を相続する結果になるのである。

(三) また被害者の就労可能年数は四〇年であるが、ホフマン方式で算定された原審認定の逸失利益賠償金を貨幣資本利殖の実態に従つて複利運用すれば、運用利息だけで年間逸失利益を超え、元本は永久に残存することになる。

(四) 独身男性に関する死亡慰藉料として、東京三弁護士会交通事故処理委員会編・前掲基準一八頁は一、五〇〇万円、大阪弁護士会交通事故委員会・前掲しおり八頁は一、六〇〇万円(大阪地裁昭和六二年基準)、日弁連交通事故相談センター・前掲基準二九頁は一、四〇〇~一、八〇〇万円としている。

しかし本件では第一・二審判決を通じ、右「基準」を超えた異例に高額の一、九〇〇万円が認められた。第一審判決は、現実収入額を六七歳まで固定したことのいわば補完機能として理解出来ないことはないものの、原判決では何が故にそこまで認定する必要があつたのであろうか。

賠償額は逸失利益と慰藉料との相互関連の下に捉えられねばならないことの理解が、原審裁判所にはない。

(五) こうして原判決認定額は、被害者側の救済に十分なあまり「高きに失して不法行為者に酷となるおそれをはらんでいる」(冒記最判昭三九)。賠償額は高ければよいという単純な性格のものではない。

三〇年あるいは四〇年という先までの逸失利益を考えるときは、限りなく多くの仮定の上に立つて算出せざるを得ない(【B】No.三七名古屋地判)。

原判決は、被害者側にとつて控え目な算定方法を採用すべきところ、前記の算定方式を採つたことは、冒記各最判に違反する。

(4) 第四に、原判決は定年時の推定年収額を大幅に超える収入を定年後にもかかわらず取得し得るかのような安易な前提に立ち、定年後の逸失利益を算定した。

しかし、その取得の可能性なるものの認定は何らの証拠にも基づいておらず、かえつてその取得の困難性は常識に照らしても明らかである。

原判決はこのように、証拠に基づき経験則を活用して蓋然性のある額を算出すべく、蓋然性に疑いのあるときは控え目な算定方法を採用すべしとする冒記最判や定年後の収入に関する経験則に反している。

原判決における敍上の最判違反及び経験則違反による法令違背は、当然判決に影響を及ぼしたこと明らかである。

五 原判決肯認の影響

もし万一原判決が肯認されるようなことがあれば、次のごとき憂うべき事態が招来される。

(一) 原判決の算定法は、ほとんど逸失利益の定額化にも等しい。

年齢・勤務年数・業績・能力・そしてこれらの反映でもある現実収入額のいかんを問わず、賃金センサス全年齢平均給与を基礎として逸失利益を算定するものであり、その算出公式における変数はわずかに就労可能年数と生活費割合のみとなる。

慰藉料の平等と逸失利益の不平等とが相提携するところに、公平でかつ悪平等に陥らぬ・適正な賠償額が考えられる(倉田・民事交通訴訟の課題二七頁、同「民事交通訴訟における損害定額化の実際」交通法研究創刊号四五頁)として、逸失利益のみは個別化が図られて来た従来の交通事故賠償実務は、原判決容認により音をたてて崩れ去るであろう。

(二) その結果、右変数のうち生活費割合が等しいときは、より高給を得ていた年長被害者(例えば中堅社長)の方が、就労可能年数の長い若年者(例えば新入社員)よりも低額の逸失利益賠償しか得られない。

かかる論理は社会的に承認されるか。

(三) 仮に被害者の勤務先につき「優良企業」、「高水準給与」、「昇給確実」といつた限定条件を設けるとすれば、その判断基準がさらに要求されるのみではなく、判断結果に対する不満、不公平感の拭い得ない事案の続出が予想される。

(四) 向後、大半の被害者は原判決認定の算定方法を主張して、訴訟へのなだれ込み現象が起るであろう。そして下級審裁判所にしても、長年を費やし営々として築き上げて来た賠償額算定方式(それは今や不法行為一般の賠償実務にまで完全に定着している)を、一朝にして放擲せざるを得ない事態に立ち至るのである。

数多の下級審判決は、「認定上厳しい要求をして下級審実務を苦しめた」(倉田・前掲課題二六頁)最判昭和三七年五月四日民集一六巻五号一〇四四頁に始まり、冒記最判昭三九、同四三へと進んだ最判の判旨に従つて、いかにこれを具体的事案に適合させ、妥当な認定に導くかの並々ならぬ苦心と英知の集積であつた。

原判決は、右の認識も反省も欠いたまま裁判例や学説の流れに抗して、先の独自の認定に及んでいる。

よつて、ここに最高裁判所の厳正なご審判を仰がんとするものである。

以上

別表〔略〕

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